終戦記念日が過ぎて

毎年、8月15日前後になると終戦の年に義父がどんなことをしていたか
家族みんなで聞くのが恒例になっています。
私の父が存命だった頃は父からよく戦争の頃の話を聞いていました。


今年は14日の晩に義父から、いろいろ話を聞きました。
昭和20年の8月14日義父は、舞鶴の近くで作業をさせられていたそうで
そんな頃になって初めて8月6日に広島に新型爆弾が落ちたと言う話を
聞いたそうです。
軍隊の中にはラジオなど情報を聴く道具がなく、そういった細かい情報は
なかなか入ってこなかったのだそうです。
まだ“原子爆弾”という言葉がなかった頃です。
隊の班長から、皮膚を露出していると放射能に汚染されるからと報告があり
暑い時期の作業を長袖を着てやっていて、暑くて大変だった。今思えば
長袖の作業服なんか着ていたって、放射能なんて防げるはずもないのに
日本にはまだそういう知識がなくて、そんな対応しかできていなかったんだなぁ、
と言ってました。 終戦を知ったのも一般国民より遅く、
15日の朝に玉音放送があったにもかかわらず、その日の夕方だったか
翌朝だったか、随分遅れて班長から戦争が終わったと報告があったそうです。
義父が言ってました。 そのときはみんな顔には出さずグッと我慢して
平静を装っていたけれど、次の日にはみんな晴れ晴れとした嬉しそうな顔を
していたそうです。日本が戦争に負けてどうのこうのというより
戦争が終わったお陰でやっと家に戻れる! という嬉しさの方が強かった
と言っていました。
家が空襲で焼けた者、長男である者、という条件にピッタリはまった義父は
終戦を迎えて一週間くらいのうちに長岡の自分の家に戻ってこれたそうです。
条件に当たらなくて、まだそこに留まらなければならなかった人たちに
随分羨ましがられたとか。
家に戻るときに兵役の報酬として650円と帰りの汽車の切符をもらって
帰ったそうですが、650円は当時ではかなりの大金だったようです。
しかしその後貨幣価値が下がったり、空襲で焼け出された家族のために
あっという間にその650円もの大金も無くなってしまったそうです。


義父はいつも言います。戦争なんていうものは
いかなる理由があっても決して起こしてはならないものだ。と


暑い日が続くあるとき
少しでも涼しさを感じるようにと、家の玄関外のタイルに打ち水をした時に
ちょうどよく風鈴が鳴って、周り中の木にとまっているセミ
飽きることなく鳴いていて、いかにも夏らしいのどかな風景に
息子が「いかにも夏休みらしいのどかな雰囲気だなぁ」と言った後に
「おかん、こんな感じで過ごしているとき、突然空から原子爆弾
落ちてくるんだぜ。どうするよ。」と言ったことがありました。


言いたいことがあり過ぎて、どう言ったらいいのかわかりません。
広島や長崎の人たちはまさにそういう目に遭ったのですね。

ありきたりですが、戦争のない平和な暮らしを願うばかりです。