壁の上塗りが終盤に入り、材料をちょっと追加しないと足りない感じになり
それが入り次第続きをやるということで
最初の部屋の壁の下処理のときにサーキュレーターを外したあと
四角い穴が残り、中側から主人が石膏ボードと木材の細物で上手く塞いで
壁を塗り何も無かったように壁が仕上がりましたが、外側からも四角い穴が
そのままになっている状態なので、それを塞ぐために今日は外に出て
はしごを使って出窓部分の屋根に上がって作業をしました。
作業は上手く収まり午前中で終わりました。が
やっている最中、どうしても石仏様が立っておられるところに
梯子をかけなければ上に上がれず、なんとなく心苦しさを感じながらの
作業でした(^ ^;)
でも運よく石仏様と石仏様の間に梯子がかかり、石仏様のお顔も
なんともにこやかなお顔で、『気にしなくていいから、怪我の無いように
やってくださいよ』と言われているようで、はしごを上るときは
上に上がりますけど済みません m(_ _)m とつぶやきながら
作業をしていました(´∀`;A
真浄門をくぐると、まっすぐに古墳の登り口に続いています。
そこに行く前に門をくぐってすぐ左手に石仏様がたくさん並んでいます。
よく見ると十九夜念仏供養尊とか十九夜と彫られている石仏が多く
いつの時代に立てられたのか一所懸命探しましたがなかなか見えるものが無く
たった一体一番奥に享保3年と彫られているのがわかるものがありました。
江戸の中期でしょうか。
手前側にはうっすらと貞享と読めるものがありましたがはっきりしません。
貞亨年代だとしたら江戸の前期でしょうか。
その昔は女性が子供を生むといえば命がけのところがありましたから
無事に安産で子供が生まれてきますように、と願をかけたと聞きました。
他にも昔は「嫁」と言えばかなり肩身の狭い立場であったでしょうから
諸々のことに対する願かけが必要だったようです(´∀`;A
いわゆる女人講という女性だけの集まりがあり、そこで説教を受けたり
いろんな話をしたりお茶を飲んだりしながら憂さを晴らして自分の気持ちを
リフレッシュする! 江戸時代にはそういう場が盛んで
それに関わる石仏が十九夜の供養塔らしいです。
そうなるまでにもいろいろ変遷をたどって来たようですが。
残念ながら詳しくはわかりません・・・m(_ _)m
近いはずなのにわざわざだとここまで足を伸ばすことなどめったに無いので
ついで、と言っては何ですが(^ ^;)よく見せてもらいました。
村君地区は農民が多く住んでいたであろうに、お金のかかる石仏が
たくさん立てられている土地柄なのだから、こういうものを大切に守って
行かなければならないよね、と言っていた方がいました。